矯正医になるまでのこと ~ 
子供時代のお話

出身は茨城ですが、大学が新潟だったこともあって、現在の住所は新潟ですが、歯科医師としての登録は茨城県です。しかし、自分では医院を持っていないので、日本中を飛び回って治療を続けています。

初めから歯科医を目指していたわけではなく、小学生の頃は、普通のサラリーマンになりたいと思っていました。すべて普通になることこそが夢でした。

そんな夢を持ったのは、理由があります。小学生の頃は、病気で、小学校にはまともに通うことができず、病院に通う生活だったのです。

NHKの教育テレビが友達。小学生の勉強は教育テレビでしたのです。

その頃は、毎日が味気ないだけの生活でした。食事をしても砂を噛むのと同じ。明日があるから食事がおいしいのであって、今晩寝たら、明日目が覚めないかもしれない、そんな死に向かい合うような生活では、食事なんて、本当においしくもない。親が優しくしてくれていても、遠い存在に感じる。死に向かい合うときは、たった一人。5歳の時に、そう感じていました。

 

幸い、中学校には、何とか通えるまでになりました。まともに小学校も出ていないのに、なぜか中学校では成績が良かった。教育テレビの番組は、基礎をしっかりと教えてくれるので、かえって、応用が利くようになり、勉強の基礎をしっかりと作ってくれたようでした。

高校では、工学部を目指していました。

物理、特に力学が得意だったこともあって、理科系に進むつもりでいたのですが、おじいさんに言われ、なぜか歯学部へ。 振り返ると、自分は、自分で何かを決めると言うより、人に導かれながら歩いてきたようなところがあります。

歯科の中でも矯正医の道を選んだのも、一緒に勉強した友人の薦めです。歯科矯正は、もともと好きだった力学の世界に近いと感じていて、自分の中で、医学と力学が融合したような世界と感じることができ、ストレスもなく、やりたいことをやってきた。そう言う気持ちです。

その上で患者様の喜ぶ顔を見ることができることは、この上ない喜びと、心から感じます。

大学時代から、何度も、疑問や壁にぶつかりましたが、そのたびにトライアンドエラーを繰り返し、前向きに向かってまいりました。

視野を広げ、技術を学ぶために、海外へも何度も学びにまいりました。

そうやって、手段としてのテクニックを学んで来たと同時に、同じ事を25年やり続けることで、人間の生体の反応を、ようやく理解してきたと思っています。一人一人の患者様によって、症例は違い、人間の生体の反応というものを見極めることで、初めて、患者様自身にあった、適切な矯正治療の手段というものがみつかる。

ひたすら同じ事を妥協せず、追求してきた結果、やっと、そんなことが分かったような気がします。